
2012.02.11
半月ほど前、建築家鳥巣元太氏と話をしていた時「建築に携わる者として一度被災地を見ておきたい」と言われました。鳥巣先生とは30年近いお付き合いをさせて頂いています。昭和63年に完成した当社社屋の設計をお願いしたのも鳥巣先生が社長をしている設計事務所でした。その後御親戚のお宅、ご友人のお宅、そしてこの度はご長男の家のご新築を依頼されています。
鳥巣元太氏
福岡県に生まれる。福岡修猷館高校卒。東京大学工学部建築学科卒。大手ゼネコン入社。設計事務所「アルスデザインアソシエイツ」代表取締役。東京理科大非常勤講師。東京大学工学部非常勤講師。
それではという事で当社井上専務、田端常務と私の四人で現地視察に行って参りました。
7日の朝早く家を出るとあいにくの大雨、予報では宮城県の天候も一日雨。アーひどい時に予定を組んでしまったなー。
仙台から石巻までのJR仙石線は途中津波にのまれ開通の目途も付いていません。仙台駅前から高速バス、御昼前には石巻に到着、,
雨も上がり薄日が差し始めていました。
二日間に渡り私達を車で案内してくれたのは高校時代の友人四倉さん。
昼食後石巻市内の被災地を案内してくれました。
石巻市内を見渡せる「日和山公園」。初めて見る鳥巣先生、井上、田端は唖然としていました。

私の友人安倍友一くんが経営をする離島航路「網島ライン」、社屋兼乗船待合所として建築中だった建物、3・11の日は屋根工事業社四倉さんの従業員が屋根工事中でした。
天気に恵まれた翌8日は女川町へ、海面から20メーターほど高い女川町立病院の駐車場から眺めます、この高台に建つ病院の二階床上まで津波が押し寄せ、この駐車場に居た人々は津波にのみ込まれたとの事。

女川町立病院を下から見上げてみました、あの建物の二階まで水が揚がったとは一概に信じられません。

鉄筋コンクリートの建物がいとも簡単に倒れています。倒れた建物は皆海側に倒れたのです、すなわち引き波によって倒壊したのです。
杭ごと引き抜かれた鉄筋コンクリートの建物、いかに津波の力が凄い事か・・・・・。
世界中に配信されたこの光景、雄勝公民館の屋上に乗り上げた観光バス。記念として保存も検討されたが地元住民の声により近く下される事になったそうです。
雄勝町伝統産業会館。雄勝町は 漁業と石の街、玄昌石と呼ばれる石の産地として有名でした。この玄昌石は硯石として国内の硯材のほとんどを産出し、また町内には沢山の硯工房があったのです。
この玄昌石は天然スレートと言われる屋根材としても知られていました。昭和62年から平成12年までの間、この地に在った日本最古の天然スレートの製造会社「雄勝天然スレート株式会社」の経営を新進建設が担っていたのです 。この間私は何度もこの地を訪れていたのです。
社屋、工場、創業者の邸宅、倉、すべて無くなっていました。わずかに切断機、ドラムなどが赤さびた状態で残された姿を見、何度も訪れた日々を思い万感胸に迫るものがありました。
現地に散乱している天然スレート。現在改修工事中の東京駅の屋根は明治の創建時から このスレートで屋根を飾っていました。今回の大改修でもこのスレートで葺く予定でした、しかしこの惨状では作り貯めていたスレートは残っていないだろうと大手ゼネコンは判断し、外国産の物を使用する事にしたのです。
当社の後を継いだのは友人の四倉さんです、四倉さんも「もう駄目だろうな―」と思いながら被災後雄勝に行ったところ奇跡的に東京駅用に作り貯めたスレートは残っていたのでした。この事はツイッタ―により日本全国に広まり「被災地のスレートを守れ―」との声が渦を巻いたのです。ついにゼネコンも決定を翻しこの雄勝の天然スレートを使用する事になったのでした。
私の母親の故郷の小学校です、母方の従兄弟達はみなこの分校の卒業生、現在分校は廃止され親戚の子供達はこの校舎に通っていました。学校から一番遠くにある集落に住む従兄弟の孫二人も在校生でした。毎日集落の子供達12人で集団登校していたそうです、たまたまあの日従兄弟の嫁が用事で石巻に行かなければならなかった、いつもより早めに子供二人を迎えに行った、その後にあの惨劇。12人の子供は従兄弟の孫の二人ともう一人の三人が助かっただけ。
従兄弟の家は津波にも逢わず無事でしたが、このままこの地で暮らし子供二人をあの学校に通わせる事は出来ないと考えた従兄弟家族は石巻市内に借家を借り移り住んでいました。この様な二次被害も多くあると聞きました。
鳥巣先生、井上専務、田端常務は口をそろえて「テレビで見ていて分かった様に思っていたが、現場に来てこの惨劇の甚大さが初めて分かった」と言っていました。
鳥巣先生には「復興の為に私が出来る事があれば何でもします」と言って頂きました。
この惨劇が「記憶」となるまであと何年の月日が必要なのでしょうか。