
2012.02.21
《ピュイサンス》フランス語で"力"という意味だそうです。
洋菓子店ピュイサンスが24日にオープンします。洋菓子店で"力"とは?
パテシエの井上佳哉さんは茅ヶ崎市生まれ、お父さんが藤沢で洋菓子店《ボナール》を経営しています。次男の井上さんも小さいときからお父さんの仕事を見ていて「僕も菓子職人になる」と決めたそうです。
井上さんは、大田区の《メゾンドプチフール》で5年間の修行の後、フランスに渡り高名なフランス菓子職人協会で2年間の修行。帰国後はフランス菓子界のカリスマ世田谷区尾山台《オーボンビュータン》河田勝彦氏の下で3年半、片腕として活躍し、2001年横浜市青葉区にて《ピュイサンス》を開店、現在はデパートへの出店。数々の雑誌・テレビなどに紹介されプロ向け講習会の講師としても活躍中なのです。
ピュイサンス "力"とは師匠の河田氏からの「どんな仕事でも一流になる為にはパワー(力)が必要なのだ」との教えからこのネーミングにしたのだそうです。「洋菓子店にはチョッと向かない名前かも・・・・・・」(井上夫人:談)
井上さんは自宅とお店を一緒にした店舗併用住宅をと考えていました。そんな時お店の近くに希望通りの土地が見つかったのでした。
「誰に設計を依頼したらいいのかね・・・」と考えた奥様は、子供さんの幼稚園繋がりの友人Nさんの家がピンときました、モダンの中にもアンティークな設えがとても気に入っていたのでした。その家の設計をしたのが私の友人建築家豊田悟氏です。
・・・・・・・・・・・・とのご縁で始まった建築でした。
昨日は開店前の消防と保健所の検査、関係者が集まると聞いて私も行ってみました。
閑静な住宅街の中に建つ《ピュイサンス》 豊田氏によるとフランスのどこにでもあるような民家をイメージした外観なのだそうです。
PUISSANCEのネームプレート
消防検査: 消防署から二人の署員が検査に来ました。火器使用ヵ所などをチェック
保健所の検査: 衛生設備(手洗い器など)が適切に設置されているかなどを見て行きます。
チョッとビックリしたのは天井から吊下げてあるポークの生ハム、その下にはお酒が飲めるバーカウンター。日本人の感覚からすると「洋菓子店の中にバーがあるのはチョッとね・・・・・・・・・・」。しかし井上さんの話ではフランスでは別に珍しい物ではないそうです。
せっかくですから豊田氏にお客風にカウンターの前に立ってもらい、オーナー井上さんとのツーショット。
検査も終わり開店を待つだけとなりました。入り口前で記念撮影を、右から現場監督氏居、豊田氏、井上様、私
クリックし拡大をして住所、地図を確認し是非皆さんも井上シェフが作る本格的なフランス菓子とワイン、生ハムをご堪能下さい。
2012.02.11
半月ほど前、建築家鳥巣元太氏と話をしていた時「建築に携わる者として一度被災地を見ておきたい」と言われました。鳥巣先生とは30年近いお付き合いをさせて頂いています。昭和63年に完成した当社社屋の設計をお願いしたのも鳥巣先生が社長をしている設計事務所でした。その後御親戚のお宅、ご友人のお宅、そしてこの度はご長男の家のご新築を依頼されています。
鳥巣元太氏
福岡県に生まれる。福岡修猷館高校卒。東京大学工学部建築学科卒。大手ゼネコン入社。設計事務所「アルスデザインアソシエイツ」代表取締役。東京理科大非常勤講師。東京大学工学部非常勤講師。
それではという事で当社井上専務、田端常務と私の四人で現地視察に行って参りました。
7日の朝早く家を出るとあいにくの大雨、予報では宮城県の天候も一日雨。アーひどい時に予定を組んでしまったなー。
仙台から石巻までのJR仙石線は途中津波にのまれ開通の目途も付いていません。仙台駅前から高速バス、御昼前には石巻に到着、,
雨も上がり薄日が差し始めていました。
二日間に渡り私達を車で案内してくれたのは高校時代の友人四倉さん。
昼食後石巻市内の被災地を案内してくれました。
石巻市内を見渡せる「日和山公園」。初めて見る鳥巣先生、井上、田端は唖然としていました。

私の友人安倍友一くんが経営をする離島航路「網島ライン」、社屋兼乗船待合所として建築中だった建物、3・11の日は屋根工事業社四倉さんの従業員が屋根工事中でした。
天気に恵まれた翌8日は女川町へ、海面から20メーターほど高い女川町立病院の駐車場から眺めます、この高台に建つ病院の二階床上まで津波が押し寄せ、この駐車場に居た人々は津波にのみ込まれたとの事。

女川町立病院を下から見上げてみました、あの建物の二階まで水が揚がったとは一概に信じられません。

鉄筋コンクリートの建物がいとも簡単に倒れています。倒れた建物は皆海側に倒れたのです、すなわち引き波によって倒壊したのです。
杭ごと引き抜かれた鉄筋コンクリートの建物、いかに津波の力が凄い事か・・・・・。
世界中に配信されたこの光景、雄勝公民館の屋上に乗り上げた観光バス。記念として保存も検討されたが地元住民の声により近く下される事になったそうです。
雄勝町伝統産業会館。雄勝町は 漁業と石の街、玄昌石と呼ばれる石の産地として有名でした。この玄昌石は硯石として国内の硯材のほとんどを産出し、また町内には沢山の硯工房があったのです。
この玄昌石は天然スレートと言われる屋根材としても知られていました。昭和62年から平成12年までの間、この地に在った日本最古の天然スレートの製造会社「雄勝天然スレート株式会社」の経営を新進建設が担っていたのです 。この間私は何度もこの地を訪れていたのです。
社屋、工場、創業者の邸宅、倉、すべて無くなっていました。わずかに切断機、ドラムなどが赤さびた状態で残された姿を見、何度も訪れた日々を思い万感胸に迫るものがありました。
現地に散乱している天然スレート。現在改修工事中の東京駅の屋根は明治の創建時から このスレートで屋根を飾っていました。今回の大改修でもこのスレートで葺く予定でした、しかしこの惨状では作り貯めていたスレートは残っていないだろうと大手ゼネコンは判断し、外国産の物を使用する事にしたのです。
当社の後を継いだのは友人の四倉さんです、四倉さんも「もう駄目だろうな―」と思いながら被災後雄勝に行ったところ奇跡的に東京駅用に作り貯めたスレートは残っていたのでした。この事はツイッタ―により日本全国に広まり「被災地のスレートを守れ―」との声が渦を巻いたのです。ついにゼネコンも決定を翻しこの雄勝の天然スレートを使用する事になったのでした。
私の母親の故郷の小学校です、母方の従兄弟達はみなこの分校の卒業生、現在分校は廃止され親戚の子供達はこの校舎に通っていました。学校から一番遠くにある集落に住む従兄弟の孫二人も在校生でした。毎日集落の子供達12人で集団登校していたそうです、たまたまあの日従兄弟の嫁が用事で石巻に行かなければならなかった、いつもより早めに子供二人を迎えに行った、その後にあの惨劇。12人の子供は従兄弟の孫の二人ともう一人の三人が助かっただけ。
従兄弟の家は津波にも逢わず無事でしたが、このままこの地で暮らし子供二人をあの学校に通わせる事は出来ないと考えた従兄弟家族は石巻市内に借家を借り移り住んでいました。この様な二次被害も多くあると聞きました。
鳥巣先生、井上専務、田端常務は口をそろえて「テレビで見ていて分かった様に思っていたが、現場に来てこの惨劇の甚大さが初めて分かった」と言っていました。
鳥巣先生には「復興の為に私が出来る事があれば何でもします」と言って頂きました。
この惨劇が「記憶」となるまであと何年の月日が必要なのでしょうか。
2012.02.04
大変寒い日々が続きますが今日は立春、しかし春まだ遠い感が強い昨日今日です。
昨日は出雲大社相模分祠の節分祭にお招きを頂き、豆撒きをして参りました。
大勢の招待客の中には日馬富士を筆頭とする伊勢ヶ濱部屋の力士が沢山来ていました。
受け付けを済ませるとスーツの上から裃を装着されます(何となく違和感がありますね)。
氏居建築設計事務所の氏居さんと
その後拝殿に上がり節分祭の神事が執り行われます。
その後外に出て仮設の舞台に上がり豆撒き開始。
まずは宮司の草山様が挨拶、市長、県会議員・・・・・・・、とつずきます。
大勢の皆さんが参集するため、危険回避として、子供、65歳以上の高齢者には一人づつ手渡し。その後6回に分けて壇上から豆撒きとなります。
撒き手も大勢、皆さん「福ハ―内・・・・・・・・・・・」たいへん賑やかな節分祭でした。
日馬富士、さすがに大きい身体で大きな手で遠くまで飛ばしていました。
私も大きな声で「福ハ―内・・・・・・・・・・・・・」
2012.02.01
今日は2月1日、このブログもチョッと中休みを頂きました。
毎日寒い日が続きますが皆様は風邪などひいてはいませんか。
昨年の秋ごろから計画をしていたプロジェクトがついに動き出しました。
私は長い間「家造り」に携わって参りました。
「家造り」はハードウェア、家という箱を作ります。では「住まい造り」とはソフトウエア、家が建つ土地、環境、インフラ、家族との生活、家のメンテナンス等々、人々の人生のそばに寄り添い、守り、愛しむものでなければ「住まい造り」とは言えないのではないか、と考えるようになりました。
具体的に言いますと人生と「住い」の関係は
1、結婚を機にアパートなどの賃貸物件を探す、この窓口は【賃貸斡旋の不動産業者】
2、しばらくして子供もでき、戸建て住宅をと考えた時土地探しの窓口は【宅地開発の不動産業者】
3、土地は買ったがどこの建築会社で新築しようかと考えた時の窓口は【ハウスメーカーの住宅展示場】
4、10年、15年住んで家族構成も変わりリフォームをしたいと考えた時の窓口は【無い、又は少ない】
5、30年、40年住み、子供達も独立し夫婦二人になり「もっと温かい所に移住しようか」又は「実家に戻ろうか」と考えた時住んでいた家を 買い取ってくれる窓口は【明確に無い、不動産業者との付き合いが無い】
考えて見れば「住まいの窓口」はみんなバラバラじゃないか、と思い当たったのです。
そこで賃貸住宅から不動産の買い取りまで一つの窓口でサービスが出来る施設を、と考えたのです。
賃貸や宅地の豊富な情報、新築やリフォームの提案が出来るショウルーム、不動産買い取りのご相談を受け付ける等の為のお店を開設する事にしました。場所は当社モデルハウス「アトリエくらびと」の隣。
建築の構造が判り易く説明のできる模型、結露や防音・断熱等が体験できる体験コーナー、和風・モダン・クラシック等のインテリアの展示、ガーデニング、浴室や洗面のリフォームモデル、建材の展示、不動産相談コーナー。そしてアウトドアテラスが付いたカフェテラス。など。「住い」の事なら何でも情報が入る、品質の良い提案が出来る、楽しく笑顔になれる、そんな賑やかな施設を目指しています。
そこでこの施設を≪すまい・る市場≫と命名する事に致しました。
右下がカフェテラスになります。駐車場は建物奥に屋内駐車場を設けます。
今年の夏までにはオープンさせたいと思い、現在準備を急ピッチで進めています。
今後進捗状況などをこのブログでご報告いたします。
2012.01.07
新年明けましておめでとう御座います
今年一年皆様に幸多き事お祈り申し上げます。
12月30日の東京駅は帰省客で大混雑、私もその一人として東北新幹線のホームに立ちました。ひと列車遅らせた自由席にどうやら座る事が出来たのです。今迄は仙台から「仙石線」仙台から石巻までの電車(最北の電車と聞いています)。仙石線は松島のあたりで海岸すれすれに走るとても景色の良いローカル線です。仙石線の窓から松島湾を眺めると故郷に帰って来たな―、といつも思ったものでした。この仙石線が復旧するのは何年先になるのでしょうか。
仙台駅前発石巻行きの高速バスにゆられ夕方には実家に到着、今年94歳になる母親、長姉、被災し実家で避難生活をしている次姉夫婦が迎えてくれました。
昨年10月、大変お世話になった友人のお父様が98歳でご逝去されました。年の内にお参りを、と考えていたもので31日に御仏前にお参り、その後石巻の様子を見て廻りました。
昨年4月中旬の南浜町の街道。流されず残ったスタンドの看板が印象的でした。
被災後。北上川の中州、石巻では「中瀬」と呼んでいます、ほとんどの建物が流されてしまっていました。
石巻の街中。友人が経営する料理屋「友福丸」があった場所
ここも街中、まだまだこの様な状況です
元旦、次姉夫婦と日和山神社に初詣
その後被災をした姉夫婦の家がある門脇築山へ行ってみました。4月に見た風景は、流れ着いた瓦礫や、車、解体を余儀なくされた住宅などで一杯でしたが、撤去が進みガランとした感じの街並みでした。
復興計画がなかなか決まらず、今後住めるのか住めないのか決まらなかったこの地域。海側に防波堤が出来る事で、住居地域に指定されました。一見何事もなかった様に見えますが、一階部分は骨組みを残し解体がしてあり、リフォームの順番を待っています。
次姉宅の北側、流れ着いた車が二台、三台と折り重なっていました
大晦日の晩、「紅白歌合戦」で長渕剛さんは石巻で歌う事になっていました。石巻の人々もどこで歌うのか知りません、混乱を避けるため秘密にしていたようです。私もテレビで見ていたのですがその場所は津波と猛火に見舞われ、被害が大きかった門脇小学校でした。
4月中旬の門脇少学校。校長先生の機転で全員の生徒は裏山に避難をし無事だったそうです。
元旦の門脇小学校。この校庭から全国に向け放映されたのです、見物の人が沢山来ていました。
校庭から目を海側に移すと、海岸線まで壊滅的な被害風景が広がっているのです。
壊滅的な被害を受けた日本製紙石巻工場。戦前から石巻の基幹産業として経済を支えて来ました、復興のシンボルとして全社を挙げて再稼働にこぎ着けたのだそうです。雄々しく吹きあげる煙がなんとなく私の気持ちをホッとさせてくれたのでした。
三日の朝、「混むから早めに出て行った方がいいよ」と姉が言ってくれました。
11時発のバスに乗り私は石巻を後に致しました。
2011.12.28
12月28日当社は仕事納めの日。
午後から皆で大掃除、古くなったカタロクなどをかたずけます。
その後今年最後のミ―ティング。
最後は工事部長興梠の音頭取りで"手締め"。
これが当社恒例の行事です。
昨年11月末にオープンした新モデル「桧の香」がとても好評を頂き、本年の年明けは良いスタートを切る事が出来ました。
しかし3月11日「東日本大震災」がおこり、私の故郷石巻市をはじめ東北地方太平洋岸は大きな災害に見舞われたのです。重ねて福島原発の大事故が大きな災いをもたらしました。一日も早い被災地の復興を祈願するものです。
発災後、断熱材や合板などの建築資材が不足となり工事工程の遅れを大いに心配したのですが、各方面のご支援により当初危惧をした程の影響もなく工事を進める事が出来ました事感謝いたします。
震災の影響による受注の減退も心配いたしましたが、思い掛けない多くのお客様からのご発注、誠に有難うございました。
夏には大型の台風に見舞われ、多くの被害も発生致しました、ご迷惑をおかけした皆様には心中よりお詫び申し上げます。
公私共に激動だったこの一年、多くの皆様に支えて頂いた一年と考え感謝を深くするもので御座います。
来る年が皆々様にとり幸多き年であります様お祈り申し上げます。
「良いお年を」
2011.12.19
3月11日、私は故郷石巻の実家、親戚、知人、友人に電話を掛け続けました。12日に日付けが変わる頃、ただ一人つながったのが友人の新妻健悦君でした。
「どんな状況になっているの」の問いに、いつもの彼らしくとても落ち着いた声で「今アトリエの二階(ロフトの様な)に妻と二人でじっとしている、一階には床上1メーター以上の水が押し寄せている、とても外に出られるような状況ではない、早く夜が明けて状況の把握がしたい」その後二日ほど2階から降りれなかったそうです。
新妻君は石巻高校の同級生、美術部の仲間です。美大を卒業後故郷石巻で児童絵画教室「アトリエ・コパン」を主宰しています。子供が本来持っている個性、感性を大事にする彼のユニークな美術教育は日本国内のみならず海外からも注目を浴びています。平成20年には日本美術教育学会の奨励賞を受賞し、現在は宮城教育大学講師として後進の指導にもあたっています。
東京での展覧会《「B言語の世界」ー秘密を探すこどもたちーアトリエ・コパンの実践・展》の案内状が送られて来たのは11月の初めの事でした。
一昨日私は東京四谷へ出かけました。
「造形言語のA」(A言語)
身辺世界を瞬時に既得像(具体像、概念)で解釈しようとする、いわゆる大人の観かた。
「造形言語のB」(B言語)
子供たちは生まれ持った五感で物を見、聞き、既得像にとらわれない創作をします。(チョッと難関なので、私が解釈をしてみました)
B言語の世界
「花を描く・粘土でうさぎを作る」をやめて、主題から解放されると「探索的な衝動-B」の出番です。造形のベースとなる色彩や線や素材そのものを自立させ、"解"の想定をやめて未知に向かって走り出す・・・・・そんな子供たちは精神の冒険を開始します。
アトリエ・コパン主宰 新妻健悦
会場はCCAA アートプラザ ランプ坂ギャラリー(旧四谷第四小学校)東京おもちゃ博物館としても知られています。
期日は12月14日(水)から25日(日)まで

「ワンボックスカー一台に積めるだけ 持って来たんだ―」と言っていた作品は一点一点とても面白い物でした。
阿部任君の作品
被災から九日目、奇跡的にお婆ちゃんと救助された阿部任君は救助のヘリを待つ間、警察官の「将来何になりたい」との問いに「芸術家になりたい」と答えたそうです。このニュースを見ていた私は直感で新妻君のお弟子さんだな、と思いました。案の定、任君はアトリエ・コパンの生徒だったのです。
会場で,私の横が新妻君、新妻夫人、新妻夫人のご友人、彫刻家翁譲氏
全員宮城県出身者です。
この後皆さんで夕食、懐かしい話や珍しい話で、楽しい一時を過ごす事が出来ました。
2011.12.03
私が新進建設に入社したのは昭和58年10月の事でした。当時は社長を含め3人の会社だったのです。
当時の地鎮祭は、工務店が竹、砂、縄、を用意し、施主はお供えの魚、野菜、塩、水、お米を用意して、神社に神主さんをお迎えに行き現場にお連れして地鎮祭を行ったものでした。(今でもこの様にしている地域が多いのでは)
当時の本社は秦野市渋沢、近くに「出雲大社相模分祠」があったので地鎮祭の度にお願いをしていました。神主さんは、草山様、聞けば草山家は18代先までははっきりたどれる秦野の旧家だそうです。代々この地域の神職を務めて来た家柄です。
出雲大社相模分祠
明治21年島根県の出雲大社第80代の国造・千家尊福公の要請により、当地累代神職であり、報徳家であった草山貞胤翁が、分霊をこの地に鎮祭申し上げ、大国主のご神徳を関東一円に広める為の要処創りとして祭る事になった。当時は渋沢峠に在ったが昭和55年現在の場所に御遷座する事になった。
草山様のお住まいであり斎館、社務所も兼ねる建物は大正12年関東大震災の年に建てた建物、90年の月日が流れお建て替えをする事となったのです。
その設計、施工管理を当社にご依頼頂きました。
純和風、「斎館、社務所」にふさわしい設計をしなければなりません。私が師と仰ぐ建築家氏居良男氏に設計をお願いする事にしました。氏居氏は私が新進建設に入社する前、在籍していた建築会社の設計の責任者でした、和風建築に造詣が深く意匠的にも優れた感性の持ち主です。

完成予想図、屋根は銅板葺きの入母屋、化粧垂木。
11月25日、関係者が揃い地鎮祭を執り行いました。
当社としてもこの普請は意義の深い物と考えています、地域のモニュメントになるような建物にしたいと考え、精魂を込め尽力をしたいと考えております。
皆様も、出雲大社相模分祠にお参りの節には工事の進捗をお楽しみにされて下さい。
2011.11.24
昨日は勤労感謝の日、あまり勤労を感謝されていないお父さんは一人、上野公園に行って参りました。
そうだ「ゴヤ展」をやってたな―、と思い、久しぶりの美術館訪問でした、会場は国立西洋美術館。
上野駅公園口は大勢の人々でいっぱいでした
西洋美術館に向け歩いて行くと、「国立西洋美術館を世界遺産に」という旗があちこちに立てられています、なんでもフランス政府がフランスが生んだ建築界の世界的巨匠ル・コルビジェの作品を世界遺産に登録しようとしていて、海外での作品もその中に加えようとしているのだそうです。
国立西洋美術館
明治の実業家松方幸次郎が収集した美術品(松方コレクション)を収蔵する為造られた施設、ル・コルビジェの設計により昭和34年に完成、その後コルビジェの弟子前川国男が新館を設計昭和54年に完成しました。
この美術館には沢山の思い出があります。
東京オリンピックが開催された昭和39年、フランス政府は日仏友好親善の為、"ミロのビーナス"を貸し出してくれたのです。高校二年の私は美術部の友人三人と夜行列車(蒸気機関車だったなー。あの頃の東京は今の何倍も遠い所でした)に乗り早朝の上野駅に着いたのでしたのです、6時くらいだったと思いますが行ってみると美術館を何周もする長蛇の列、まともな朝食も取らずその列に並び、人波に押されゆっくり見る事も出来ずその日の夜行列車に乗って帰りました。ただ四人とも"ミロのビーナスを見たぞー"という大きな高揚感を抱いて。47年前、半世紀の時が過ぎていました。
フランシスコ・デ・ゴヤ(1746ー1828)はスペイン美術界の巨匠。宮廷首席画家として沢山の肖像画などを残しました。
少しはこの道を志した事がある私は彼のデッサン力の高さに驚きました。「着衣のマハ」の様な優雅な油絵だけかと考えていたら、沢山の素描絵やエッチングなどの版画、それも社会を風刺した作品が数多くありました。今で言えば現場写真、戦争の悲惨さを訴えるような臨場感あふれる作品も。
これらの作品は全てマドリッドのプラド美術館に収蔵されています。これほどの規模のゴヤ展を海外で開くのは初めてとの事です。
(写真はネットから拝借いたしました)
平成7年夏、私は正面玄関まで行ったのですが、「膨大な収蔵品を見るには時間がないなー」などと言い訳をし、食欲と呑欲に負け道路向かいのホテル・リッツのダイニングルームに入ったのでした。
ホテルリッツのガーデンレストラン。(写真はネットから拝借)
スペインでは夜8時をすぎないとディナーは出してくれません、スペイン旅行の皆様は注意して下さいよ。
オット、話は食欲と呑欲の方へそれてしましましたね。
国立西洋美術館の話でした。
2011.11.17
毎朝、新聞を開けばTPPの文字が目に入ります。簡単に言えば対国間の関税を無くすという事なのでしょう。
前回のブログで当社が建築資材をなぜ購入する事になったのかをお話しいたしました。今回はその経験を家造りに役立てる事になったいきさつをお話しいたします。
平成5年頃建築会社間の競争は激しくなっていました。当社も「他社との差別化を計らなければ」と強い危機感を抱いておりました。当時のトレンドは<輸入住宅> アメリカやカナダ、北欧などの住宅が憧れの的でした。
私は当時毎年5月開催されていた建築資材の大展示会グッド・リビング・ショウを毎年見ていました。平成6年の会場で出会ったのがカナダ・ブリティシュコロンビア州(以下BC州)のブース、聞けば木製サッシやナラの無垢材で出来たドア、システムキッチン、フローリング等がかなり安価に手に入りそう。普通は「フーン、安そうだなー、でも関税や輸入手続きが面倒だなー、よくだまされると聞いてもいるよなー」とちゅうちょするところでしょうが、当社はスペイン、アメリカからの天然スレート輸入で培った経験があります。会場に居たカナダ人の女性からカナダ大使館の商務官ジム・アンフォルト氏の紹介を受け、一週間後には大使館を訪問。ジム氏から「直接取引でもよいが多品目の購入ならばBC 州公認のDistributor(集荷業者)を紹介するからそこを使った方がいいですよ」とのアドバイス。その日から10日後には故井上社長、興ろき、私の三人はBC州バンクーバーに「買い付け旅行」、ナラ材で出来たドア、フローリング、造作材、システムキッチン、Lowen社製の木製サッシなど40フィートコンテナ3本分の資材を買いこんで来たのです。
輸入建材のカタログ【THE HOME】
カタログ内部、ナラ材の玄関ドア、室内ドア、ガラスが入ったインテリアドア、クローゼット用折戸、システムキッチン、外部はアルミ室内側は木製のサッシなど。
同年の8月スペインで見つけたタイル業者からの輸入も始める事になります。
これらの建材を在来木軸工法の住宅に組み込んだ新商品を発売する事になりました。商品名は何にしようか、悩んで私が決めたのは≪Gーsolid ジーソリッド》Good(良い)、Gorgeous(豪華)、Great (素晴らしい)、Grain(木目)などの頭文字のGと無垢材を意味するSolidを繋げた造語でした。

GーSolid 初めてのカタログ
そして平成6年11月モデルハウスを南足柄市内に造ったのでした。
スペインからのタイルは船便では間に合わないので航空便で運びました、タイルは重いので材料費の何十倍の運賃が掛ったのですよ。この全て無垢材で出来たモデルハウスを見た皆様はとても驚かれました。その後GーSolidはよく売れてくれたのでした。
茅ヶ崎市内に造ったO 様邸、重厚な風合いがとても素晴らしい出来栄えでした。
平成7年、G―Solid の故郷を見せてやろうと思い社員全員と、建具屋の高橋さん、大工の佐々木さん、内装屋の佐野さん、材木屋の大野さん、設計士の七海さん、左官屋の尾登さんを連れてアメリカ、カナダの研修旅行に行って参りました。
米国オレゴン州 ポートランドに一泊、バンクーバー二泊の強行軍で、米国の住宅建築現場、完成した分譲住宅、カナダの建具工場、キッチンメーカーの工場、塗装工場などを駆け足で見て参りました。
BC州からの輸入は平成6年(1994)当時の米ドルは1ドル95円くらいでした、その後1995年には79.75円になり輸入業者の私は円高のうま味を享受していました、しかしその後1998年には147.63円となり円安の重みに耐えられず,GーSolidシリーズからの撤退を余儀なくされたのでした。
この様な経験からTPPはとても身近な問題と感じられています、一時期建材輸入の仕事で、カナダ、アメリカ、韓国、中国、インド、スペイン、フランス、スウェーデン、デンマーク、等の国を訪問した私が率直に感じる事は日本人はもっと海外に出て世界を知るべき。TPPに参加すべし、というのが私の意見であります。